映画『王と生きる男』のヒットとともに、劇中で描かれた端宗と世祖を取り巻く人物たちの人生にも関心が集まっている。作品では詳しく扱われていないが、幼い端宗と定順王后の別離の物語は、悲劇的な愛として語り継がれている。
とりわけ端宗が流刑となり、やがて賜死された後の定順王后の人生は、別れ以上に過酷なものであった。『燃藜室記述』などの野史によれば、15歳で王妃となり、18歳で夫を永遠に失い、その後82歳までの64年間を独りで生き抜いたとされる。
清渓川・永渡橋に刻まれた永遠の別れ

ソウル清渓川(チョンゲチョン)に位置する永渡橋は、定順王后と端宗の最後の出会いを証言する歴史の現場だ。『燃藜室記述』などの野史によると、端宗が寧越(ヨンウォル)に流刑に出発する日、定順王后は東望峰近くまで夫を見送ったが、結局この橋で生き別れを余儀なくされた。
「永遠に渡ってしまった橋」という意味を持つ永渡橋の名も、この悲劇に由来するとされる。王后は夫の死を知った後、生涯にわたりこの場所から寧越の方角を見つめ、涙を流し続けたと伝えられている。
仇の施しを拒み、自立を選んだ人生
王妃から一夜にして奴隷の身分に転落した定順王后の生存意志は、端宗の妹、敬恵公主に劣らず強かった。世祖が提供する食料と住居を断固として拒否した彼女は、東大門(トンデムン)の外の淨業院近くで女性たちと共に布を紫色に染める仕事で生計を立てていた。
現在ソウル鍾路区(チョンノ区)崇仁洞(スンイン洞)には、彼女が衣類を洗っていた青龍寺と庇雨堂が残っており、当時の王妃が耐えた過酷な労働の痕跡を示している。この一帯は「紫芝洞」と呼ばれ、定順王后の生活の場を記憶している。
民衆が作った秘密の女性市場
世祖は定順王后の苦労を見て食料を送ったが、彼女は毎回これを返送した。この時、民衆が彼女を助けるために特別な市場を作り出した。それが「女人市場」だ。
官軍が定順王后を助ける人々を監視すると、村の女性たちは野菜や食べ物を売る市場を形成し、密かに彼女の家の前に食べ物を置いていった。官軍の監視を避けるために男性の出入りを完全に禁止し、女性だけが買い物をするこの市場は、端宗と定順王后に対する民衆の切ない思いが生み出した初の女性専用市場だった。
64年の歳月の末に叶った復権
定順王后は世祖、睿宗、成宗、燕山君を経て中宗の時代まで生き、82歳でその生涯を終えた。彼女は死ぬ前に「端宗のそばに埋めてほしい」という遺言を残したが、朝廷の反対により夫の墓である寧越の荘陵(チャンヌン)ではなく、京畿道(キョンギ道)南楊州市(ナムヤンジュ市)思陵(サルン)に一人で葬られた。「思陵」という名称も生涯夫を「思」いながら生きたという意味で付けられたものだ。

定順王后は亡くなってから170年以上が経った粛宗の時代に至ってようやく王后として復権された。
公式な歴史書である『世祖実録』は彼女の人生を沈黙で貫いたり短く記録しただけだったが、民衆の口から伝えられた「女性市場」と「紫芝洞」の伝説は、どのような正史よりも生々しく彼女の高潔な闘争を証言している。
また、彼女の長い生涯と人生で示した闘争の時間は、朝鮮王室史で最も悲惨な愛と待ち続けた記録として残っている。
